福西本店
FUKUNISHI HONTEN
福西本店の黒く光る蔵
大正時代の豪勢な商家の風情を身近に味わいながら
ショッピングやグルメを堪能できます。
福西本店は19世紀後半から20世紀前半に栄えた会津若松の大商人福西家が、その豊かな財を費やして100年ほど前(明治後期から大正初期)に建てた蔵と商家建築です。
特に大町通り(赤レンガ通り、野口英世青春通り)に面した店蔵、仏間蔵、炭蔵の3棟の蔵の外壁は、通常の白漆喰(しっくい)ではなく、大変手間がかかる黒漆喰(黒磨き)で建てられています。
黒磨きは災いを祓うとも言われますが、漆喰に松煙墨を加えて材料にし、壁一面をムラなく漆黒に磨き上げる非常に高度な技術を必要とします。
漆喰の主成分は白い消石灰の粒子ですが、ここに松を燃やして作った松煙墨の細かい煤の粒子をむらなく混ぜ、何度も練り直しをすることによって、色褪せすることのない、鏡のような壁面を仕上げることができるのです。
ちなみに、今の若松城天守閣は会津松平家時代の白漆喰に赤瓦の五層で復元されていますが、蒲生時代の築造当初は黒漆喰、あるいは黒漆板張に黒瓦の七層であったと伝えられています。豊臣政権の「黒」に徳川政権の「白」という対比とも言えるでしょう。
この黒光りする外壁と赤瓦の屋根が醸し出す美しさは、往時の大商人の威勢や財力を今に伝えています。
二階に大広間を擁する母屋の奥には、もっとも古い時期に建てられた二棟の蔵があり、その中でも北東に位置する座敷蔵はお客様をもてなす凝った造りでした。また、母屋の天井は大変高く、ここにも当時の福西家の財力を感じられます。
母屋につながり、庭を見渡す東南の一角には二階建ての数寄屋があり、二階はお客様が滞在する風流な建物となっていました。
福西本店は、国の支援を受けて改修し、多くの人々に公開されますが、一つ一つの建物の由来と利用方法は次のとおりです。
店蔵
(黒漆喰蔵造二階建)
品物を取り扱う商売の場所でした。2018年8月には“会津に百年続くもの会津で百年残したいもの”をテーマとしたセレクトショップとしてオープンする予定です。
仏間蔵
(黒漆喰蔵造二階建)
福西家の先祖を祀る場所でした。
母屋
(木造二階建)
福西家の一族が生活していた場所
で、宴や会合を催した大広間が二階
にあります。また、大広間東南の隅
には茶室も設けられています。
座敷蔵
(蔵造二階建)
庭に面してお客様をもてなす座敷
がありました。
母屋蔵
(蔵造二階建)
使用人が住み込み、布団づくりなど
の作業をする場所でした。
数寄屋
(木造二階建)
建物の東にしつらえられた庭に面してお客様が滞在する場所でした。
塩蔵
(蔵造二階建)
塩や味噌醤油を保管していた場所で
す。この蔵は明治時代に福西家が他
家から買い求めたものと言われてい
ます。また、この蔵には戊辰戦争の
際に攻めてきた土佐藩士の落書きが
残されています。
300年の歴史を誇る
福西家
会津若松の城下町とともに栄えた福西家は、
三百年の歴史があります。
福西家は、第六十二代村上天皇(10世紀半ば)の皇子具平親王(ともひらしんのう)の血を引く赤松氏という豪族の子孫と伝えられています。
赤松氏は播磨国(兵庫県)に勢力を持っていましたが、戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)に入ると衰退しました。
その一族が室町時代に戦功をあげて大和国高市郡(奈良県)に領地を得、唐院という土地で繁栄し、福南・福東・福西・福北の4つの姓に分かれました。
この福西一族から、商業で栄えた堺(大阪府)で藤井家という大きな商家の手代となった先祖が福西家のはじまりでした。
18世紀、八代将軍吉宗の時代(享保年間)、初代伊兵衛が会津へ入り、それ以来、歴代の福西家は商人として活躍し、明治時代(1868年~)にはさまざまな物産を扱う問屋業に加えて、味噌醤油、漆器などに手広く商売を拡げました。
そして、100年ほど前の九代目伊兵衛の時代には、会津銀行(今の東邦銀行)の三代目頭取に就任し、岩越鉄道(今の磐越西線)や猪苗代水力電気(今の東京電力)の設立に参加するなど、近代会津を代表する大商人となったのです。
今の福西本店は、この九代目伊兵衛が建築した蔵や建物が多くを占めています。
そして、味噌醤油や漆器などは分家を立てて独立させ、福西本店を継いだ本家は製綿や寝具を主に手掛け、十二代目まで伊兵衛を襲名することになりました。
しかし、20世紀後半、商業のあり方が大きく変化する中、製綿や寝具の商売を断念し、今回の改修を契機として観光施設へと大きく転換することになりました。
【写真1】福西本店のスケッチ(会津壱番館所蔵)
会津若松は150年前の戊辰戦争で
最大の激戦地となりました。
会津若松は、会津地方の中心都市です。
会津地方は古墳時代(4世紀頃)から栄えた大きな盆地ですが、1590年に伊勢松坂から蒲生氏郷(近江日野の領主出身)が移って領主となることにより、飛躍的な発展を遂げることになります。
会津若松もその前までは「黒川(羽黒川のほとりの土地)」という地名だったのですが、蒲生氏郷が鶴ヶ城を築いて、一帯を城下町として整え、地名も「若松(若々しく緑豊かな土地)」へ改めました。
また、蒲生氏郷は産業の進んだ近畿地方から漆器や酒造、瓦や陶器といった技術を会津地方へ導入し、商工業を盛んにしました。
福西本店の面する大町通り(赤レンガ通り、野口英世青春通り)も蒲生氏郷が整えた商業のメインストリートです。
この大町通りには、黄熱病や梅毒の研究で知られる世界的な医学者野口英世が医学の基礎を学んだ会陽医院(渡部鼎院長)があり、今はレトロなカフェ(會津壱番館)として利用されています。(※写真3)
その後、江戸時代に入って(1643年)、二代将軍秀忠の庶子、三代将軍家光の異母弟である保科正之が会津地方の領主となり、会津松平家の治世がはじまります。
幕末(19世紀後半)、日本が徳川幕府側(東軍)と新政府側(西軍)に分かれて戊辰戦争となる中、会津松平家は徳川幕府側に立って戦い、1868年8月から約一ヶ月間、会津若松城下は激戦地となりました。この戊辰戦争で会津藩は二千名を超える犠牲者を出すのですが、出兵した藩士に限らず、白虎隊や婦女子の自害をはじめ、城下では幾多の悲劇が起こったのです。(※写真4)福西本店の南奥にある塩蔵には、攻めてきた土佐藩士の落書きが残されています。
この大きな内戦は土方歳三が戦死する函館まで続き、徳川幕府側の敗北に終わりますが、日本は明治政府が全国を治める体制へ、武士が退場する時代へと変わることになります。
その後、会津若松は歴史の表舞台から遠ざかり、今でも城下町の風情を残し、落ち着いた街並みを今に伝えています。
【写真2】会津戦争記聞~戊辰戦争の一場面~(福島県立博物館所蔵)
【写真3】會津壱番館
【写真4】敗戦後の鶴ヶ城(会津若松市所蔵)と
現在の再建された鶴ヶ城(会津若松観光ビューロー所蔵)
福西家伝来のお宝を無料で見学できます。
福西家は、その長い歴史の中で数々の美術品、工芸品を収集してきました。(※写真5 それぞれクリックして拡大表示)
福西家伝来の所蔵品の一つが、加藤遠澤(かとうえんたく)の山水図(掛軸)です。加藤遠澤は会津出身の人で狩野探幽(かのうたんゆう)に師事し、会津地方における狩野派(江戸時代の専門画家集団)の第一人者、会津藩のお抱絵師となりました。遠澤の画がある家であれば嫁に出してもよい、と昔から伝えられているほど珍重されたのです。
十代目伊兵衛は酒井三良(さかいさんりょう)をはじめとする同時代の文化人や芸術家と交流を重ね、彼らの作品も収集してきました。
交流を物語る所蔵品の一つが、山内多門(やまうちたもん)の虎渓三笑図屏風(こけいさんしょうずびょうぶ)です。山内多門は宮崎県出身で川合玉堂(かわいぎょくどう)や橋本雅邦(はしもとがほう)に師事し、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、会津へ来訪して福西家と交流があったと推測されます。
さらに、小川芋銭(おがわうせん)が会津本郷焼の閑山窯(かんざんがま)で絵付けした花瓶も、小川芋銭や酒井三良(さかいさんりょう)、寺崎広業(てらさきこうぎょう)といった画家と福西家の交流を伝えています。
また、細密な寄木細工の飾り棚も残されています。この飾り棚は、1925年のパリ万国博覧会へ出展されたものを買い求めたと伝わっています。
【写真5】山水図掛軸
【写真5】虎渓三笑図屏風